感情を人質にとる人々
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「日本を守るために命を投げ出した方々に向かって『あなたたちは間違っていた』と言えますか?」
日本の戦争は間違っていたという主張に対し、かなりの確率で目にする反論です。言えるわけないじゃありませんか。命を失った方の遺族に面と向かって。相手の気持ちを考えれば当たり前のことです。
でも、よく考えたら、これは反論になってないですね。この言葉が問うている命題は、間違いを当事者に「言えるかどうか」であって、「間違っていたかどうか」ではありません。当事者を前にしたとき、間違っていると言えなかったとしても、これはあくまで相手の気持ちを考えての配慮であって、事実の正誤とは厳格に切り分けなければなりません。
冒頭の例に限らず、相手が間違っていても敢えてそれを指摘しないケースは、TPOの問題としてよくあることです。フォロワーさんと宴の席で楽しく話しているときに、相手が何か間違った主張をしたからと言って、息まいて反論したりはしないですよね。せっかくの楽しい場が気まずくなってしまいますから。このように場の空気を読んだ対応をしたからといって、相手の主張を認めた、なんてことにはならないはずです。
自衛隊の問題でも似たような手がよく使われます。自衛隊の批判をすると、それに反対する人たちの口から「隊員の気持ちを」云々。自衛隊員の方本人や、ご家族の方々がこのように言われるのなら分かりますが、まったく関係のない人たちがこのような主張をする。批判に対し、それが正しいかどうかではなく、それで傷つくかもしれない方々の「気持ち」を盾に取る。これは「感情の人質」作戦とでも呼べるでしょう。議論の手段としては、いかがなものかと思います。
と、いつまでも回りくどい言い方をしていてはこのコーナーの意味がありませんから、もっとはっきり言います。物事の正誤が問われているときに、自分以外の誰かの感情を人質にとる、このような行為は極めて卑怯で姑息です。冷酷非情の人間と思われるかもしれませんが、敢えて言います。正誤、善悪の判断には本来、感情が介入してはなりません。誤りを正し、世の中をより良くしていくためには、間違いは然るべき形で糾弾されるべきなのです。感情に流されて誤りが正されなければ、過ちは何度も繰り返され、世の中の矛盾は続くばかり。そこは誰かが心を鬼にして、憎まれ役を買って出なければならないでしょう。
もちろん、いたずらに相手の感情を害することは厳に慎まなければなりません。議論の本題に関係のない誹謗中傷は、人質作戦同様卑劣で悪逆な行為であり許されないのは当然のことです。また、正義であるからといっても、誰かの気持ちを傷つけることは可能な限り避けるべきです。その点から自分を顧みれば、まだまだ努力が足りないのも事実です。本当に許せない問題であれば、ついつい感情的になってしまい、攻撃的な言葉を吐くこともあり、厳しく反省しなければなりません。
揺るがず正義を貫きつつ、敵対する相手も傷つけず温かく包み込んで、いやが応もなく納得させられるような包容力に溢れている……そんな表現こそが、自分が創作活動で目指す理想なのかもしれません。一歩でも二歩でも、それに近づいていきたい。