荒野の創作砦

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論説委員会

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「対案」の魔力

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「反対するなら対案を出せ」ということがよく言われます。この一言で反対を封じられる、とっても便利な言葉ですね。

この後にはお決まりの「反対だけでは無責任だ」や「対案を出さないのはずるい」といった、反対者を非難する言葉が続きます。

記事の挿絵があります。

正しく目的地へ向かっているのに、反対ばかりして足を引っ張る。これは確かに無責任ですね。また、目的地に近づいてはいるが方向が若干誤っている場合、これはまさに対案を出すべき状況です。対案による軌道修正が必要であり、可能であるというケースです。

では、目的地とは正反対へ全力で逆走している場合はどうでしょうか? この場合、正しい方向への最大限の軌道修正となれば、まず逆走を止めること。すなわち、正面から反対する以外にあり得ません。この状況では、当たり障りのない「対案」で多少方向を変えたところで、事態は悪化の一途を辿るばかりです。このケースでは、反対こそが最大の対案にほかなりません。

とどのつまり、「反対は無責任」なのかどうか、ひいては反対以外の対案が存在し得るのかどうかは、主導権を握っている推進者の進行方向如何によって決まるわけです。推進者が大逆走をかましておきながら、それを指摘する反対者に対して「対案を出せ」というのは、問題の本質から逃げて論点を逸らしているだけです。前述のとおり、逆走に対する最適な対案は、反対以外にあり得ませんからね。

推進者の方向が正しく、反対者が誤っているというなら、それが正しいと何故言えるのか、正々堂々と述べればいいだけです。わざわざ対案を求める余地はありません。

対案を要求している時点で、多かれ少なかれ方向に誤りがあることを認めているわけですから、自らも一度立ち止まって修正するのが建設的な立場でしょう。相手が対案を出さないからといって、誤りを認識したまま突き進んで良いわけがありません。対案なしではどう修正すべきかも分からない、というのであれば、もはや推進者として事態を主導すべきではないでしょう。反対者に主導権を譲るのが賢明です。

結局のところ、議論の主導権を持った推進者が「反対するなら対案を出せ」というのは、一見建設的な議論を求めるように見えて、実際には議論の場に最も相応しくない、姑息な言い逃れに過ぎません。

反対だけでは何も進まないのは確かですが、だからと言って「力強く進む」ことが前進とは限りません。力強く退行しているかも知れないのですから。「前」とは如何なる方向なのか、それが簡単に分かるなら苦労しないでしょう。だからこそ、前進方向を導き出すために、議論というプロセスが存在するのです。

奈落の底へ一直線に進む道が、一見すると「前進」に見えてしまうことだってある…………そんな道には、自分は真正面から「反対」を貫きます。

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